こんにちは! 私たち『企鵝一座(ぺんぎんいちざ)』は、福岡県を中心に小さなスクリーンの影絵、パネルシアター、紙芝居などの活動をしている、ちっちゃな劇団です。 |
第17号(昭和57年) この年の七月二十三日、長崎市内を襲った記録的な集中豪雨で道路や建物の多くが壊滅的な被害を受け、死者・行方不明者299名という大災害となりました。1時間で153mmの降水量は1999年の千葉県香取市と並び、いまだに国内最高記録です。 |
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第16号(昭和32年) この年の八月二十八日、茨城県東海村の日本原子力研究所の実験用1号原子炉が初の臨界に到達、日本国中が沸きかえりました。 同年にソ連・ウラル地方や英国で原発事故が発生したにもかかわらず、日本各地に原子力発電所が相次いで建設されていきました。 |
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第15号(昭和47年) 東京に次いで二度目のオリンピックとなる冬季五輪が札幌で開催されました。 70m級(現・ノーマルヒル)ジャンプで笠谷幸生ら日本3選手が表彰台を独占、「転んでも金メダル」のジャネット・リン選手の愛くるしさに世界中が注目しました。 |
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第14号(昭和51年) 米国、日本だけでなく世界各国の政財界を巻き込んだ大汚職「ロッキード事件」が発覚、田中角栄前首相逮捕で日本国内に衝撃が走りました。 「記憶にございません」、「黒いピーナツ」などが流行語として子どもたちにも広がりました。 |
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第13号(昭和43年) 十二月十日、現金輸送車に積まれた大手企業のボーナス約3億円が偽装白バイ警官に強奪されるという衝撃的な事件が発生しました。 現在の貨幣価値で約十億円という前代未聞の事件は、偽装白バイをはじめとする遺留品や目撃証言が多いことで早期解決が期待されましたが、捜査は難航し、昭和五十年に時効が成立しました。 |
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第12号(昭和60年) お盆直前の八月十二日、日本航空・123便が群馬県多野郡上野村の高天原山(御巣鷹の尾根)に墜落、520名の死者を出しました。 その中で乗客4人が奇跡的に生存、当時12歳の川上慶子さんが救出される模様は大々的に報道されました。 |
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第11号(昭和35年) 戦後復興の象徴でもあるプロ野球日本シリーズ第2戦が行われた十月十二日、日比谷公会堂において日本社会党委員長・浅沼稲次郎が暴漢に刺殺されるというショッキングな事件が発生しました。 |
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第10号(昭和55年) 「THE MANZAI」がスタート、横山やすし・西川きよしなどに続き、ツービート、B&B、ザ・ぼんち、星セント・ルイス、オール阪神・巨人、島田紳助・松本竜介などが次々とスターダムにのし上がり、空前のお笑いブームが到来しました。 |
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第9号(昭和30年) 戦後十年。 戦争の傷跡が少しずつ癒え、復興の光が射す中、日本は高度成長へとまっしぐらに突き進んで行きます。 この年、広島市で第一回原水爆禁止世界大会が開催され、長崎市には平和記念像が建立されました。 |
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第8号(昭和58年) この年、千葉県浦安市に米国外では初となる「東京ディズニーランド」が開業、初年度は9ヶ月の営業で1千万人近くの来園者を集めました。 開園以降も常に新しいアトラクションを増やし、現在に至るまで圧倒的な人気を維持し続けています。 |
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クイズ増刊第1号(水戸黄門) 本紙ではテレビ番組や歌謡曲を中心に、その年を象徴する出来事や流行を取り上げていますが、このたび、昭和の話題をクイズ形式で取り上げる「クイズ増刊」を発行することになりました。記念すべきクイズ増刊第一号は昭和44年にスタートした国民的娯楽番組「ナショナル劇場 水戸黄門」に関するクイズです。 |
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第7号(昭和63年) カール・ルイスらの活躍で沸くソウル五輪開催中の九月、昭和天皇の病状が悪化、各地で祭りやイベントが相次いで中止され、TV番組やCMにも自粛による影響が及びました。 翌年の一月七日に昭和天皇が崩御(87歳)、激動の時代「昭和」が終わりました。 |
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第6号(昭和37年) 今からちょうど五十年前。 工場の排煙と自動車の排気ガスが街をすすけさせ、「スモッグ」という言葉が聞かれ始め、それが近代化の証とも受け止められていた時代。 編集子はそんな昭和三十七年に生を受けました。 五十年後にこんな「新聞」を作ろうとは・・・・ |
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第5号(昭和53年) この年、自動車各メーカーが「ミラージュ(三菱)」、「サバンナRX−7(マツダ)」、「パルサー(日産)」、「コルサ(トヨタ)」、「プレリュード(本田)」など新機軸の車種を相次いで投入、庶民のカーライフの多様化に拍車がかかりました。 |
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第4号(昭和39年) 十月十日に開幕した東京オリンピック。 NHK・北出清五郎アナの「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます。」 の名言が記憶に残ります。 戦後19年、日本の復興と国際舞台復帰を世界に華々しく印象付けました。. |
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第3号(昭和49年) 前年に第四次中東戦争が勃発、政府は「総需要抑制政策」を策定。 年明け早々に原油が約2倍に値上り、「(第一次)オイルショック」として日本を直撃しました。 この年の消費者物価は約25%上昇し、世に言う「狂乱物価」が庶民の生活を一変させました。 |
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第2号(昭和45年) この年、「人類の進歩と調和」をテーマとした万国博覧会が大阪で開催されました。 6400万人もの入場者を集め、終戦から25年を経て日本の発展を全世界にアピールしました。 まさに高度成長期の真っ只中です。 . |
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創刊号(昭和41年) 「昭和ぺんぎん新聞」創刊。平成二十四年ともなると、「昭和は遠くになりにけり」。 しかし、テレビ番組や歌謡曲を振り返りますと、自分の年齢や住んでいた場所、当時の世相や流行が色鮮やかによみがえります。この年、NHK朝の連続テレビ小説「おはなはん」が高視聴率を記録しました。 |
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世相・事件・流行などを通じて昭和をふりかえります。 |